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TOPへ 水城跡 水城跡1(木樋跡) 水城跡2 展望台 コスモス畑

水城跡

福岡県太宰府市水城、国分

撮影日:2008年10月25日
:2009年10月20日

 太宰府天満宮へ行くのに国道112号線を通って行くのですが、前々から気になっていた「水城跡」へ寄って見ました。国道112号線沿いに隣接する綺麗に整備された方の駐車場の前は、コスモス畑があるので、コスモスの時期はたまに見には来ていました。今日は、水城跡周辺と展望台を散策してみました。

水城跡とは・・・

 水城は664年に築造された土塁で、663年白村江(はくすきのえ)の戦いで敗北後、大野城や基肄(きい) 城などと共に築造された防衛施設です。土塁はここ国分側の丘陵と住宅街になっている正面の吉松丘陵との間1.2kmを塞ぐように造られた人工の盛土です。土塁の下には樹木の枝葉が敷かれています。
 これは敷粗朶(しきそだ)工法といい、基礎の滑りを抑える工法で、調査で確認された枝葉を見ると落葉樹に葉が付いていること、果実が未成熟であること、葉の大きさなどから初夏(5月初旬〜7月)に敷き込んだと推測されます。
 その敷粗朶の上に盛られた土塁は、質の異なる土を交互につき固める版築工法によって造られています。土塁は大きく2段に造られ、幅77mの平坦な土塁(下成土塁)の上に、幅23m、高さ5mの台形状の土塁(上成土塁)が造られています。博多側にテラスが設けられていることは、防衛上不必要と考えられ、急角度の上成土塁の地滑り防止の為に造られた押え盛土と考えられています。
 現在水城跡周辺には住宅が迫ってきていますが、土塁を挟んで博多側(向かって右側)には幅60mの外濠があったとされ、大宰府側(向かって左)には内濠があったと考えられています。
 眼下には県道と市道が通っていますが、手前の市道付近を奈良時代に官道が通り、大きな礎石がある付近に東門があったと考えられています。
 正面に水城跡を眺めると、真正面に遠く背振山を望み、水城の中央付近を御笠(みかさ)川が流れ、鉄道・高速道路・国道が横切っていることがわかります。九州自動車道については、この水城跡の隙間(御笠川付近)を通過する計画が出された際、景観の問題が議論され、トンネル工法や迂回させる方法などの代替案が検討されました。しかし、御笠川や鉄道の地下を通過することでの安全上の問題、さらに多額な費用がかかるなど様々な理由から、ほぼ当初の計画どおりに決まりました。ただし、景観に配慮し、道路の高架の高さを水城跡の頂部より低くすることになったのです。よって、現在見るような低い高架が造られ、地面すれすれに高速道路が通っているのです。

 駐車場に車を置いて、水城三差路の交差点を渡ると、多目的広場があります。こちら側にも、砂利の駐車場が設けられてありました。水城大堤之碑は、大正5年に水城青年会によって建てられた碑です。


東門礎石


水城跡とは

「水城」の名の由来


上空から見た「水城跡」周辺です。下の図で現在地東側です。


   
土塁の構造



     
     
     
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