TOPへ | 須賀神社(旧祗園社) | 須賀神社(旧祗園社)1 |
佐賀県小城市小城町松尾
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昔、佐賀の「古湯温泉」に寄った時に、山の頂上に建つ神社が!それに、階段が凄い!本殿まで行くにはこの階段を上がって行かなければならない。何段あるんだろう?と、いつもこの近くを通る度に思ってて、今回、近くを通ったので寄って見ました。 と言うものの、頭の片隅に、この風景をどこかで見たような?懐かしくも、また、来たこともあるような?そんな感じがいつもしていました。で、ここへ来て、この鳥居から見る光景でやっと分かりました。そうなんです!映画「第42作 男はつらいよ ぼくの叔父さん」のラストシーンで出てきた「須賀神社」だったのです。これで、ちょっとスッキリした感じです。 この他にも、小城駅・小城高校・古湯温泉・千代雀酒造・山王神社・畑瀬橋、ちょっと離れて旧三瀬峠のカーブにモクモクハウスなどがあります。 |
須賀神社の鳥居と国道44号線を挟んだ向かいには、老舗の和菓子店「村岡総本舗」、隣接する右の古い建物は国の有形文化財「村岡総本舗
羊羹資料館」になっています。 この店の人気の「とら焼き宗歓」や昔ながらの「特製切り羊羹」は、遠くから買いに来る方もいるそうです。
村岡総本舗羊羹資料館 |
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橋の手前に「山辺の道」の案内板があります。今回は、須賀神社のみお参りしました。この周辺には桜の木がたくさん植えてあり、桜の季節もまた違った風景で綺麗です。 階段を上がった本殿の右側の道を進むと「千葉城跡」(展望台)があります。そこから見る風景は、遠く雲仙・阿蘇の噴煙を見ることもできるそうです。 |
千葉城跡 須賀神社 南北朝、室町、戦国時代に小城郡、佐賀郡、杵島郡の三郡一帯に勢力をふるった干葉氏の山城跡です。干葉氏がこの城を築いたのがいつ頃だったのかはっきりしませんが、史書には千葉大隅守胤貞という人物が正和5年(1316)はじめて下総国(千葉県)より下向し、晴気に居住し、それとともに千葉城をつくったとしています。その時、祗園社を勧請したため牛頭城、祗園城の名称があります。 城跡は右手の一番高い山の上にあり、この山を城山と呼んでいます。干葉氏は東千葉、西千葉の両家にわかれ、争って衰退し、戦国大名龍造寺隆信に服属していきました。 祗園川にそって城下町が栄えましたが天文15年(1546)馬場頼周と龍造寺剛忠の合戦で城も城下町も焼けてしまいました。 祗園社は今日須賀社と称していますが、ここの山挽社事は干葉氏がはじめた由緒のある行事です。なお、城跡の中腹には千葉城跡碑や明治天皇御製碑があります。 |
須賀神社へ向かう手前に架かる赤い橋「祗園橋」です。この日は、雲一つ無い真っ青な青空!絶好の天気日和で、素晴らいロケーションでした。ここから見ると、本殿までの階段は急勾配に見えますね。 |
祗園橋から見る祗園川は、底が見えるほど透明で綺麗な川でした。遠くで2羽の白サギが戯れていました。5月下句〜6月初句の頃には「源氏ボタル」を観賞すること ができるそうで、蛍の名所として有名らしいです。 |
須賀神社の二の鳥居です。この神社は、本殿の前ではなく階段の下?に遥拝所?で参拝するようです。 |
須賀神社(旧祗園社)由来 御祭神 健速須佐之男大神 櫛稲田姫大神 当神社は桓武天皇延暦22年(803)の創建と言われ、当初は「清祠」と称し、肥前国佐賀・杵島・小城三郡の崇廟神社として栄えたと、古記にある。 後に肥前国の地頭職であった千葉大隅守平胤貞は正和5年(1316)鎌倉幕府の命により、九州下向の際、京都祗園社 現在八坂神社の御分霊を勧請し、干葉氏の守護神として、代々の城主は懇ろに奉斎した。祭神は尚武・愛情・病災消除・農商工業の神として御神徳を有して居られ、古来より近郷近在の人々の深い信仰を集めている。 明治3年(1870)杜号を須賀神社と改め、大正13年(1924)には旧県社に列せられ、今日に及んでいる。遠くには雲仙・阿蘇の噴煙を望見し、眼下には清流の祗園川が流れ、源氏螢の飛び交う風情はまさに一幅の絵である。 とりわけ、祭の圧巻は、鎌倉時代より延々と引き継がれた勇壮な山挽行事で、古色蒼然として、素朴な時代色を有し、現在もなお氏子・崇敬者の心を捉えている。 ●因みに当神社の例・大祭は次のようである。 ※一月 十四日 お火たき神事(古札焼納祭) ※一月 十五日 花柴 祗園 ※七月第四日曜と前夜山挽祗園(別名団扇祗園) ※十月 十五日 柿 祗園 |
遥拝所?です。さっそくお参りして、さっき見えていた急勾配の階段を上がって、本殿へ向かうことにしました。多分、息切れするでしょうねw。さて、この階段は何段あるんでしょうね。 |
社殿は閉まっていました。右の写真、参拝されていた方が、ここで手を洗われていました。綺麗な水でしたが、ちょっと、手を洗うのは・・・。 |